新潮社の作風VS宅八郎の作風(3)
「新潮社の作風VS宅八郎の作風(3)」
(※筆者注・「糊口」は簡単に言うと〝しのぎ〟〝食いぶち〟ってことで良いかと思います)
現在、絶賛(?)発売中の『週刊新潮』では1ページ人間になった宅八郎です(『ウルトラQ』では「1/8計画」って回がありましたね)。
「とび職」、つまり「Tobi-Shock」。いつでもボクは危険な綱渡りをしているわけです。
すでに昨日までのボクの記述で、新潮社社内でも「何かに気づいた」人間はいるだろう、それは『週刊新潮』編集部でなくともね(フフフッ)。
その「作風」について記述する前に、まずは取材における「風景」を読者に知っていただきたい。そのほうが速いかもしれない。
以下は10月25日午後に行われた『週刊新潮』宅八郎取材の詳細だ。
『週刊新潮』記者(以降、新潮) これまでの宅さんの記事では、「処刑」「殺す」という書き込みは、宅さんの作風・芸風であり、危害を加えるつもりはなかったという見解が紹介されていますが、その点について詳しくお話しをお願いしたい。
宅八郎(以降、宅) 詳しくと言うのであれば、ボクが明けて今日(10月25日)深夜から早朝にかけて3つ記した「見解と声明」という長文にわたる手記を良く読んで下さい。その上でお応えしましょう。
新潮 なるほど。それはすでに読んできています。2ちゃんねるをはじめ、ネット上で「○○を殺す」「○○を爆破する」というコメントを書き込んだ人が脅迫容疑で逮捕されていますね。
宅 記者さん、待った。爆破の場合は〝脅迫〟でなく、〝業務妨害〟の容疑になると思われます、そこはあなたの法認識の間違い、です。
新潮 ・・・あ、確かにそうですね。なら一般ユーザーの「殺す」という投稿は逮捕されますが、では宅さんの「殺す」というコメントは「表現である」と主張される根拠と、両者の相違点はどこにあるのかを教えていただきたい。
宅 それについても、詳しく手記に記していると思います。何もボクが「自分だけが特別だと特権的に思っていない」ことは分かるはずです。
新潮 ネオ麦茶のような、匿名で殺人予告をされるのと宅八郎という、顔が見える評論家として「殺す」と書くのでは違う、という解釈でよろしいでしょうか?
宅 その解釈でも、ほぼかまいません。
ここまでは、予定調和のインタビュー、質問と応えだったとも言える。
その後に、まるで「笑っていない眼」を輝かせるように、『週刊新潮』らしさを濃厚に、まるで獲物をいたぶるような仕草を記者は取り始めるのであった。編集権は相手にある。こちらには、スキを見せるわけにも「つい漏らしてしまった」という失言も許されない。
すべては「現場」のアドリブ、反射神経、スタンド性能の問題だ。
ここからが、「作風」対決の真骨頂である。
新潮 四方氏について、音楽評論家の「個人情報」をネット上に晒した、という点についてはいかがお考えでしょうか?
宅 「実名を晒された」って話なら、四方宏明は音楽評論家としての活動を実名でしている人ですからね。会社も知っている。晒すも何もない。または御社から出版されベストセラーになった書籍『電車男』は「匿名性」記述に支えられた表現でもあるわけです。逆に実名による表現もありえます。
新潮 (嬉しそうに)『電車男』はウチから出した本ですね。
宅 あの本は装幀やタイトルのロゴデザインも秀逸だったと思っていますよ。では話を四方処刑に戻しますね。「社名」うんぬんの話であれば、外資系大手P&Gは「マーケティングに対する自負」で(特に広告代理店やマスコミ筋には)有名な企業です。彼自身、音楽評論家としてはマーケティングの観点からも思考し、活動していた側面があるだろうと、ボクは感じています。もっともメディアにとって巨額の取引高がある、大スポンサーP&G。その名を記すおつもりが御社にあるか、分かりませんが(※注・結果はなかった)。
新潮 話を続けて下さい。
宅 音楽評論家であれ、何の評論家であれ、発言力のある人間の「お言葉」を支える「何か」を調べて追及していくのも決して無意味なことではないでしょう。ボクが四方宏明批判をしていく上での作風は「生のコンテキスト(文脈)」を視る視点を含んだものだったとも言えます。
新潮 それは?
宅 ボクだけでなく、一般的にたとえば犯罪報道に顕著ですが、「どこで生まれて、どう育って、何をしている人間が、どのような発言や行動をしているか、したのか」などという意味での情報は出ますよね。卒業文集とか同級生の発言とかも含めて。
仮にそれが何かの「像」を「立体的に視る」ことなのだとしたら、それって、『週刊新潮』の作風にも通じているかもしれませんよ。
この取材そのもの! 今!
新潮 ウチが? 今?
宅 新潮社、『週刊新潮』の作風・芸風というのは斎藤十一の作風でもあっただろうし、ただしその斎藤スタイルはまた時代によって変わっていった面はあったかとは思いますが、現に引き続いている影響は分からない。御社の社内事情はあなたのほうがお詳しいかと(苦笑)。
新潮 (苦笑)。
宅 じゃあ、別の例を挙げましょう。ある出版社のベストセラーでその名も『東電OL殺人事件』という本があります。しかし、被害者が殺害された因果関係を考えれば、もしかしたら本来は「渋谷売春婦殺人事件」というタイトルでも良かったかも知れないですよね。勤務先を記さなくとも。殺害された事実と東京電力のOLであったことの因果は薄いわけですから。しかし、『東電OL殺人事件』と題したことは、ある意味で「生の文脈」を重視したんだろうし、それは読者、つまり世間から欲されていた何かの「欲望」による「表現」なのだとは思います。
新潮 犯罪報道であれば、もちろんそうですが、宅さんのなした表現は違うでしょう。
宅 「報道」は良しとし、個人の表現を否定する特権意識に疑問を感じますが、では、もう一言言います。報道性、速報性を超えて、その出版社はその後になってから『東電OL症候群(シンドローム)』という本さえも出していたはずです。売れるという判断かもしれませんけど、これは一体何でしょうか(笑い)。まさか、東京電力に勤務しているOLさん全員に共通する「病」なのでしょうか・・。さて、その出版社とは新潮社という出版社なわけですがっ!
新潮 「宅八郎節」ですね・・・。
スキあらば、相手は突っ込んでくるだろう。バカじゃない。むしろ逆でボクの頭では、とてもかなわないような優秀で頭脳明晰な御方だ。
マンガファン方々からは怒られてしまうかも知れないが、まるでリアル「DEATH NOTE」だった。それは心理戦、頭脳戦、そう知恵競べという意味で、だ。
世代を変えて例え換えれば、「明智小五郎対怪人二十面相」かなー(苦笑)?
自分の言葉尻のどこをどう「切り出して」書かれるか分からない。じつは記していない誘導尋問も多かった。一手先、二手先、その先さえ読まなきゃならないし、そのまたさらに裏をかかなきゃならないのは大変だよっ。罠と罠の掛け合い。恋のワナワナ。
「サシの勝負」だ。
いつしか、ボクが記者の質問を浴びながら「性器が勃起していたかどうか」、はいずれ世間に知られることになるかもしれません。
しかし、次から「何か」が姿を現す。
新潮 ほほう。では、宅さんの最近のお仕事について、何をされて生計を立てていらっしゃるのか、お伺いしたい。本誌が過去に宅さんを取り上げた最後の記事はホストクラブ勤務を取材したものです。その後、非常勤になったことまでは存じ上げていますが、現在も指名があれば通っていらっしゃるのか、それとも別の活動を中心にしていらっしゃるのか、生計について教えていただきたい。
宅 (ふ〜ん、そうか。そここそが今回、最も聞きたいことだったのだね、新潮さん。ボクは心の中でそうつぶやいた)
まず、大きく2つに分けて話させていただけますか。1つはボク自身が本業だと考えている肩書きの問題。もう1つは副業および収入について、です。
ホストクラブ非常勤うんぬんはおそらくWikipedia記述などの誤情報でしょう。それは間違っています。とっくの昔にホストクラブからは足を洗っています。すでに数年も経っていて、今は一切関係していないです。
新潮 「オタク評論家」っていったい何なんです?
宅 肩書きです。肩書きというのは資格職ではないでしょう。民間ですし。肩書きは自分で名乗った場合に適用されるとは考えていますが、もちろん実績は必要です。なぜなら、読者や世間に対する説得力の問題もありますからね。決して「言ったもん勝ち」だとまでは思いません。ただし、「オタク評論家」とは「オタク分野の物事についての評論家」かもしれないし、「オタク的立場で事象を視る評論家」かもしれませんが、そこは読者の持つイメージにゆだねてます。まあ、テキトーです(苦笑)。
新潮 「評論家」?
宅 さて、ここで「評論家」という言葉です。岩波書店から出た本だったかなと記憶しますが、「自分は評論家ではなく、批評家だ」とした際の、早稲田大教授・加藤典洋さんの場合もあります。しかし、世間では「評論家」と「批評家」の区分けを明確にしている人が多いとは思わないです。記者さんは今この場で区別して言えますか?
新潮 ・・・・・。
宅 それだけ、非常に定義はあいまいだと言うことです。「学者」もそうで、必ずしも大学教員を指してはいません。また、文芸評論家の評論はそれ自体が「文学」になるケースもありますから、すると「作家」になるでしょうか。また「経済評論家」などと称されるのを嫌って「○○アナリスト」と名乗っている方もいますね。要するにボクが「オタク評論家」という肩書きを名乗っているのは、ボクの「勝手にしやがれ」です。
新潮 でも「評論家」だと?
宅 確かに「評論家」という言葉が含まれてはいます。もしかすると、新潮さんや世間には「宅八郎ごときが評論家かよ」と思う方もいるのかもしれないです。ただ、それは高みに立っている、威張っている、エラソーにしているという意味ではないと思います。たとえば、世間一般企業の社長に実行力がなく、自分や社員の会社なのにまるで人ごとみたいな態度を取っている社長の場合は、社員さんたちが悪口・陰口で「ウチの社長、あの人は〝評論家〟さんだからねー」と否定的なニュアンスで使われる場合もありえますからね(苦笑)。
新潮 もういいです! 宅さんが何をされて生計を立てていらっしゃるのか、分かりにくいので、他に何かあれば教えていただきたい。
宅 音楽活動に移行している面もあります。バンド「ハチロック」はほとんどお金になっていませんが、多少の収入になっているのは、DJ「メカヤクザ」とリミキサーということになります。
新潮 リミキサー?
宅 要するに楽曲の再編集という理解で結構です。
新潮 音楽評論ではなく、御自身で?
宅 これは新潮社から小説も出版されている作家であり評論家である方を指していたかと、あいまいに記憶していますが、ビートたけしさんが芸人評論を逆批判して「ガタガタ言ってるなら、おまえがお笑いやってみせろ!」と言って見せたことの共鳴から来ているかもしれません。実践無き評論は四方宏明であり、ボクはそうではないとも言えます。
新潮 では、宅さんが何をされて生計を立てていらっしゃるのか、収入をお伺いしたい。
宅 (税務署かよ、と思いつつ)複合的な収入にはなりますよ。出版社の方であればご理解いただけるように、今は出版不況ですよね。書店も大変だ。出版社もWebビジネス展開を手がけている傾向はあります。当然、ボクのような立場でも影響は受けます。文章の執筆だけでは食えなくなっているのは確かです。ただ、逆にWebがらみの仕事が発生したり、デザインを含めた仕事になったりすることはあります。ボクの場合、朝鮮語翻訳の仕事もあります。
新潮 それで。
宅 その他で言えば、イベントプロデュースを手がけていたり、企業の顧問を務めていたりもします。そのため、非常に複合的で一言で言えない面はありますが、まあ「何でも屋」ということで構いません。
新潮 肩書きと言い、何をされて生計を立てていらっしゃるのか、分かりにくいですね。
宅 では別の例を挙げてみましょう。ネット時代にあって、活字表現媒体は減っているのは事実ですが、下町の職人さんが「最近あまり仕事入ってこないなー」と言っているのと同じかもしれませんし、影響力のあった評論家・平岡正明さんも晩年は連載をお持ちでなかったと思いますが、彼は亡くなるまで「評論家」だったでしょう。もちろん職人さんは職人です。また、政治家が選挙で落選して、いわゆる「浪人中」という場合でも、本人もしくはメディアも「政治家」とするでしょう。
新潮 その話はもう結構です。では、宅さんが何をされて生計を立てていらっしゃるのか、お伺いしたい。
宅 じつは、とび職のアルバイトもしています。
(すごいな、とボクは思い続けていたが、言わなければならないコトを言うコトにしようと思った・・・)
新潮 「とび職」! それで、それで。それは、それはどういうことです。ぜひ、ぜひ、その話をお聞かせ下さい。
宅 (ここで食いついてくるわけか。納得したいわけか、と理解したボク)
生活費を稼ぐためです。本業だけで生きていける時代ではなくなっています。時に副業が収入的には多くなることも世の中ではあることでしょう、ボクもそうです。全収入の内、とび職で得た収入の占める割合は大きいです。ただ、本人が考える「本業」と「副業」は異なることもあるかとは思います。
新潮 それはそうですよねー。
宅 とび職は「親方」ではなく、「下っ端」です。とび職の下っ端です。怒られてばっかりです。
新潮 なるほど、分かりましたー。
宅 ご理解していただいて、ボクは幸福者(しあわせもの)です!
(新潮社の〝ご理解を理解〟できて、ね)
しかし、新潮社の「作風」は生ぬるいものではなかった。さらに最後の追撃もあった。
新潮 では、最後にお聞きしたいことがあります。DJであり、オタク「評論家」なのであれば、現在騒がれている酒井法子被告・高相祐一被告についてお伺いしたい。同じDJとして、また評論家と言うなら「言葉」にして語ってみせてください。今すぐ、ここで! クラブやDJにとって、いい迷惑だとか、おっしゃりたいとか?
宅 「DJサイバーのりP」と「DJメカヤクザ」では音色音源など、DJとしての「作風」は異なるとは思います。
ただし、ボクはすべてのDJやクラバーの選挙などによって、正式に選出されたような立場ではありません。なので彼らの声を「代弁」するようなことはとても出来ません。ただ、一言言うとしたら、「もし、ボクが酒井・高相被告に問われている容疑がかけられたとしたら、メディアからは〝ヤク八郎〟と記されたいですっ」!
新潮 (大爆笑)それなら、ウチ(『週刊新潮』)の読者年齢層でも理解可能な表現です!
宅 70年代のオイルショック(Oil-Shock)を実体験している方々ですねー。
(何か自分の中で〝言葉〟が破裂している実感があった)
新潮 まさに「宅八郎節」ですねー。今日はありがとうございました。
宅 『週刊新潮』さんには、どのような書かれ方、取り上げられ方をされても構いません。ただ、掲載誌の送本だけはよろしくお願いいたします。
取材を受けた25日夜、ボクの頭の中ではすでに「とび職」という言葉がわんわんとCompressorをかけて、最大限のLimiterを切った結果、とてつもない音圧になっているサウンドとして聴き取れていた。
問題はボクの予感なり予想が的中するか、だった。あとは「頭脳対頭脳」「感覚対感覚」だけだ。
さて。
そして、ボクの記事は10月26日午後(夜ではなく早めの時間)に校了していると思われる。週刊誌の印刷所としては珍しい大日本印刷だ。ただし『週刊文春』編集部のすぐ横に××印刷×××があるように、『週刊新潮』にも大日本印刷の部署が隣接しているかは知らない。しかし、新潮社と大日本印刷本社とは歩けるほど、わずか1キロほどしか離れていない。
そして『週刊新潮』は、10月28日に編集部に大日本から納品された後に、担当編集者によって、ボクの自宅に送本されてきた。届いたのは昨日29日だ。
ただし、ボクが感じ取った動きは28日、電車内「中吊り広告」だった。それはこの一連の文章の(1)に記している。中吊りの一行を視て瞬間的に思った。
「勝った!」って。
たった、つかの間に過ぎません。しかし、少なくとも、その時点では思った。『週刊新潮』の作風から考えれば、逆襲してくる可能性はあって、もちろんボクは今後「征伐」されちゃう可能性だってあるかもしれないが。。。
現在発売中の『週刊新潮』記事はもはや〝新潮社と宅八郎の合作〟とさえ言える奇跡的な着地点を見せている。
●見出しタイトル「糊口」
●中見出し「とび職」
●KinKi Kids「きんき」Tシャツ
それぞれの総合バランス。
では、ボクの「とび職」への道、また新潮社の作風についての見解は、まだまだこれから記していくことにする。
(つづく)
※なお、ボクは受けた取材について、いちいち、こんな風に取り上げるようなことはしません。これは相手が新潮社だったから面白いと思ったんです。今後、ボクを取材する関係者さまは御安心下さって大丈夫ですよん♪
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