新潮社の作風VS宅八郎の作風(4)
「新潮社の作風VS宅八郎の作風(4)」
現在発売中の『週刊新潮』11月5日号。
その〝記事〟をさらに語っていこうとしている、オタク評論家の宅八郎です。
新潮もしつこいとは思いますが、しかし、ボクもしつこいよね(苦笑)。
新潮社はボクに取材し、インタビューする前からすでに「型を決めていた」とも思える。じつは「期待しているような応えしか、許さないような態度」が新潮社にはあったワケだ。それはすべてのマスメディアにも時に見られることかもしれないが・・・。それに対するボクの「現場対応」は先に記したとおりだ。
『週刊新潮』がかつての小学館ほど悪質悪辣であったなら、ボクも記者の実名を記し、実態やそのプライベートまでも調査していただろうけど、今回は知能戦だった。なのでボクなりには配慮している(敬意さえ払っていると言ったら言い過ぎだろうか)。
では、前回の続きから、〝新潮社と宅八郎のコラボレーション〟について記していこうかな。
確かにボクはもしかしたら「とび職」という言葉が誌面に踊るかもしれないとは予想していた。電車内「中吊り広告」を視て、それは確信に変わった。
中吊りは吊りであり、釣りでもある。
しかし、さすがにボクも記事の中見出しがたった3文字で「とび職」とは思わなかった。これは新潮社の凄すぎるスキルである。文章表現技術力の高さね。
たとえば、これが小学館などであれば、中見出しも「○○○とか抜かしている宅八郎はとび職をしている」とか何とか、それ自体が〝文章〟、少なくとも〝文節〟構造をともなうものになっただろうことは想像に難くない。
しかし、キャッチコピーの基本として、可能な限り短く表現したほうが、「強い」のは間違いない。
そこで『週刊新潮』は読者に伝えたいことを「とび職」と、たった3文字で表現しきっている。見事と言うほか無い。
「宅八郎の糊口」→「とび職」という構造ね。
ただし、ホメているばかりじゃありませんよ、ボクは。
タイトルには「糊口」という表現がある(糊口は「ここう」と読みますが、簡単に言うと〝しのぎ〟〝食いぶち〟ってことで良いかと思います)。
あのね、ボクは文章表現者だから、「糊口」は読めるし、意味は理解できるけど、世間一般の人たちが「糊口」って正確に「ここう」と読めて、意味が伝わるだろうか(電話などで耳で聴いた場合の響きも含める)。
大体、今は政治家ですら漢字が読めなかったり、読み間違いを笑われてる時代なんだよ。かくいうボクも最近はパソコンを使っているので、「読めるけど書けない漢字」は確実に多くなっている。
それほど若い読者には伝わりにくい「糊口」(ここう)という表現を選んでいるのに、中見出しは「とび職」なわけ。漢字で「鳶職」ではなく、ひらがなで「とび職」(笑い)。『週刊新潮』読者層なら、漢字で「鳶職」でもいいじゃない。
このちぐはぐさは最高とも言えるわけだが、ボクが着ていたKinKi KidsのTシャツも「きんき」と、ひらがなだから、もしかしたら意識したのかな、とも思えてきて、それらの三点責めでもはや〝新潮社と宅八郎のコラボ〟とも考えてしまったんだね(笑い)。
取材を受けて、「新潮社」は凄すぎるなとボクは思い続け、賭けに出ることにしようと、言い切った言葉、それが「とび職」だった。
新潮社は聞いてこなかったから、書いていないことがあるので、読者に伝えておきましょう。
なぜ、ボクがとび職のアルバイトを始めたかと言えば、「高い所から世の中を眺めてみたい」と思ったからです。「自分のような底辺の人間が高い所に登ってみたかった」からです。しかし、一つ間違えれば命を失う、大変な命がけの仕事です。
(「上から目線」の音楽評論家にもそういったフィールドワークは必要かもしれませんが、簡単にできるような仕事でないのも確かです。すべての「職人さん」に対する敬意はボクの基本姿勢です)
さて。『週刊新潮』発売号の該当ページにはボクのブログ文面を引用して、以下のような記述が出てきている。
〝問題のブログには、
〈判決は決まった。「死刑だ!(中略)ボクは何度も何度も「通報」されている。
通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報通報!〉 と、不気味な文言を書き連ねた〟
しかしね、新潮さんが言うように、ボクのブログ文章も「不気味」かもしれないが、『週刊新潮』という雑誌も相当に「不気味」すぎるとは思うね。
どこがどのようにか、分析すればキリがないと思うけど、何せ「黒い報告書」と「谷内六郎の表紙絵」が同時に存在している、魑魅魍魎の異世界なわけ。
パラパラと雑誌を開いて載っているページを読んでいけば、そこにはかなりえげつなく、ドロドロした記事が並んでいるのに、表紙は「夕焼け小焼け」とか「田んぼで遊んでいる子供」のような叙情的「絵本」みたい絵なんだからね(ほのぼのと日向ぼっこしてる子供も、お日さまが沈んだら、妖怪が出てきちゃいますよ)。
このギャップはもはや「作風」「芸風」なんだろう。
しかし、ボクは新潮社の取材を受けている時に、じつは色々と考えていた。それぞれの、世にも奇妙で怪奇な「怪物性」について、である。
次のようなことだろうか。
1.(斎藤十一の影は強く感じるが)新潮は確かに大衆が無自覚無意識に持っている「恐ろしい何か」と結託しているように思う。それはめまいがするほどに憂鬱なものかもしれない。しかし、表現をしていく上で、宅八郎にも何かとの結託をしようとしている面はあるか、とも思う(ただし、ボクの場合は結託しようという意志はあっても、〝相手〟に拒絶されているかもしれません)。
2.また、「新潮社の作風VS宅八郎の作風」は実は一種の近親憎悪である可能性すらある。新潮社は何かしら宅八郎に「嫉妬」しているのかもしれないし、逆に宅八郎は新潮社に何らかの「嫉妬」をしているかもしれない。
3.ただし、以上のような可能性を否定できないが、ボクの頭脳と感性ではまだ整理し切れていない。
「読む人」それぞれがそれぞれに何かを感じるのかもしれないね。
最後に次のようには言えるかな。
『週刊新潮』は「糊口」という難しい漢字表現を選んでおきながら、かたや、「とび職」と平仮名表現を選んでいる。さらに掲載したボクの写真はアレだ。
そのデスクあるいは編集長の「時代に対する言語感覚」は不思議ですよ、と。デスクさん、編集長さん、人事異動で『nicolaニコラ』編集部に行ったら、通用しないよ!(そういう異動があるのかは知りませんが、逆もつらいだろうなwww)
『週刊新潮』編集者・記者それぞれも『nicolaニコラ』編集部や『ニコ☆プチ』編集部から出直すことを強くオススメします。
http://www.nicola.jp/
http://www.shinchosha.co.jp/nicopuchi/
ただ、ボクも新潮社とはわざわざモメたいわけではない。新潮社にお願いすらあります。
ボクをぜひ「ニコモ」や「プチモ」にしてください!(正確には「メンモ」)
「ニコモ」や「プチモ」のみんなと遊びたい、おともだちになりたい!
http://www.shinchosha.co.jp/nicopuchi/profile.html
この中に「ハチロー」って紹介されたいっ♪
(とりあえず、おわり)
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