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2012年7月

大津市いじめ自殺事件とネットと宅八郎自身

滋賀県大津市の「中学生イジメ自殺事件」が大騒動になっている。
9ヶ月前の自殺について、ついに死んだ中学生の通っていた学校に滋賀県警の捜査も入ったようだ。
ボクは1990年のオタク評論家としてのデビュー時期に、「イジメ」に関する考察を発表している。当時は「自分がイジメられないためにイジメに加担する子」を「擬似イジメっ子」と造語し、そのことがイジメを構造化していると指摘した。最初に出版した単行本『イカす!おたく天国』(太田出版)にも収録している。ただ、20年以上前の造語と考察なので、本来なら「加担」と「傍観」の問題については、さらなる整理を試みたいのだが、今あまり時間がありません。

当時、「擬似イジメっ子」という造語は社会評論にとどまらず、ボクをテレビ局の楽屋裏で恫喝してきた集英社契約編集者への批判に伴うものだったのだが、それ以降もボクはイジメについては継続的に触れてきた。ひどく簡単に言えば、「イジメられっ子による復讐の物語」の提示だ。もちろん読者や視聴者からは過激視された。
過去にあったオタクを取り巻く「迫害」という状況や、イジメの構造をともなうマスメディアのあり様に対して、ボクは「復讐の物語」を自分自身、体を張っての「言行一致」を貫き通したために(それは「実験」でもあったかもしれない)、94年には小学館事件の別件で不当逮捕されることとなり、95年にはマスコミとの闘いの顛末を単行本にもまとめた(『処刑宣告』〈太田出版〉)。
また、比較的最近では(と言っても現在の情報の消費速度からすれば、事件の記憶は曖昧になっといる方もいるかも)、SMAPメンバー草なぎ剛氏が逮捕された後に、ブログにも「イジメ」という観点からの指摘をほんの少しだが試みている。

参考・宅八郎による草なぎ剛さん事件についてのブログ(2009年)
(ココログとアメブロはまったくの同一内容なのでお好きな方を)
http://takuhachiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/qa-fb03.html
http://ameblo.jp/takuhachiro/entry-10248669906.html

つまり「今来たから3行で教えて」と言われれば(苦笑)、端的にはマスメディアの報道姿勢そのものが「イジメのモデル」になっているということだ。あと情報を発信することの責任論にも留意してね。

さて、本題に戻るが、現在ネットにはこの「大津のイジメ自殺に関するまとめサイトが存在する。その事を知ったのは数日前だが、この文章を記している現在も続いているはずだ。
ボクは世界でただ一人の肩書き「オタク評論家」を名乗りながら(自分のためだけに考案した肩書きなので、Wikipediaのデタラメ記述のように「元」ではなく、生涯現役です)、ネットやゲームに驚くほど無知であったり、2ちゃんねるを見ているほど若くも無くなったから、まとめサイトを知ったのは遅いほうだと思う。
この「まとめサイト」、目を通してみて大変憂鬱な気持ちになった。
途中で加速したのは、フジテレビのワイドショー(情報番組と言い換えましょうか)放送時に加害者の実名の伏せ字が甘かったために「特定」が進んだことによる。
そこで、このまとめサイトの参加者たちはイジメの加害者を独自に特定(認定)した上で、それら中学生たちの実名から写真(加えて全員ではないが住所、電話番号など)がアップされている。その保護者たちや家族についても同様だ。学校関係者についても、やはり同じく。
また攻撃先の電話番号リストもある。その架電攻撃結果報告もある。

ボクにはまるでリンチの様相を呈しているように見える。
全国の学校や教育委員会を動かして、〈加害者〉をどの高校にも行かせないようにするだの、親権者(保護者)の仕事を奪うようにするだの、物騒な書き込みが山ほどなされているからだ。「奴らには何をしたって良いのだ」という発想はイジメ以外の何物でもない。
以前指摘したマスコミの問題以上に、まさにこのサイトそのものが、イジメのモデルのように現れているのだ(「様式」「図式」「構造」)。だから、ボクはクラクラとめまいを起こし、大きく憂いを感じた。
しかし、すでに裏付けのないサイト独自の「特定、認定」の誤りから、拡散されたデマによって、イジメ自殺とはまったく関係のない第三者の実名や経歴が晒されたり、攻撃電話が多数殺到したりしたらしく、間違いなくこのサイトの被害は出ている状況だ。
そして、重要なのはこのサイトが、イジメで自殺した中学生の親族など、当事者によって作られたものではないことだ。ネット上で、何かに駆られた匿名の人たち多数で編集を重ねたものであることだ。

さて話は少しそれる。昔の映画や小説には「復讐者=リベンジャー」をテーマにした傑作も多くあった。おそらく復讐というテーマには「娯楽性」はあるのだ。
しかし、「2ショット」という通じない和製英語と同様に「リベンジ」という言葉、現在日常的に使われている場面のほとんどは「リトライ」という意味合いかと思える。本来のリベンジ=復讐は当然のことながら当事者(本人や家族など)によってなされるべきものである。名乗るのは当たり前だ。「仇討ち」で名乗りを上げないほうがどうかしている。
ところが、現在の「大津市イジメ自殺事件まとめサイト」では、匿名の人たちの自覚無自覚はさておき、(復讐というよりも)「退治」、「悪を成敗する」ような動きが起きているわけだ。

ここに参加している人たちのほとんどは、深く考えないままに自分を絶対的な正義の側に身を置いている。その上で、「イジメ加害者(と彼ら彼女らが勝手に認定した〈悪人〉たち)を匿名で「裁いている」のである。「勝つ」とか「作戦」という言葉も散見された。まるで「犯人探し」のミステリー、「悪者退治」というゲームを楽しんでいるかのようだ。まさにプレイヤーによる「祭り」。娯楽を見出しているように見えるから、そのうち飽きてしまったり、別の「ネタ」に移行していくのかもしれない。(ワイルド芸人スギちゃんじゃないけれど)彼らは「娯楽」をとてつもない速度で「消費」しつつあるのだ。

このサイトには、被害者の同級生たちに向けた情報募集のメッセージもあるが、彼ら集合体は当事者ではない立場で「正義」を疑ってはいないため、万が一サイトの違法性を問われた場合をまったく想定しておらず、呼びかけた中学生たちを安心させるように、「加害者・親権者の個人情報をネットに晒しても罪に問われる事はない」などと、どこかの誰かが何の担保にもならない保証をしている。また、警察不信が根にあるのか、「公安調査庁に連絡する手もあります」などと記されている。
およそ中学生たち(同級生たち)のことを案じるとめまいがする。いっそ通報先は防衛省でも農林水産省でも良いのかもしれないし、「娯楽」を面白くする情報しか目に入らない、受け入れないような態度では、何が事実か事実でないかさえ、参加者たちには意味が無いのかもしれない。
悪は悪らしくさえあれば良く、その意味では悲惨な事件の〈加害者(情報)〉もプレイヤーにとっては、「格好の獲物」や「アイテム」と化しているようにすら感じられる。

「あいつにはいつか天罰が下る」。一般論として、この文章を読んでくださる方も含めて、誰しもがそれぞれ何かの理由でそう感じる局面は長い人生の中に個々に多いだろう。しかし、その「天罰」を、匿名を駆使した集合体による参加型で行おうとするのは、あまりに無責任である。情報を発信したり、表現したりする「自由」には責任が伴うはずなのだが。
ボクは過激な復讐者と化した際には「裁くのはボクだ!」と叫んできた。天罰が下るではなく、「ボクが下す」と。
もはやテロリストである(苦笑)。社会から過激視され、ボクの逆襲だけを見て「宅八郎はひどいな」と悪の側にみなされもした(量的には「過剰防衛」という理も「倍返しで良い」とする理も主観にすぎない)。ただボクは、自分に対する悪い社会的評価はある程度構わないと考えてきた。天に唾するような言動を自覚している以上、言動の結果はとっくに覚悟している。それは最低限の責任感である。

ボクは思う。リベンジャー宅八郎のように「悪魔」や「死神」を名乗ることまではともかく、真の復讐者は必ずしも絶対的「正義」とは言えず、闘う上では「悪」とされても構わないくらいの必死さ、切実さ、覚悟、責任感は求められると思う。

責任に裏付けられないネットの「祭り」はどこへ向かうのだろう。ボクには手に余るので、誰か示唆して下さい。

ネットによるこうした状況を考える上で、過去にも同様のことは起きている。問題を考えるのに参考にして欲しいサイトをリンクしておきます。
(スマイリーキクチさんのインタビュー)
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335.html
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335-2.html
(北海道での〈ネット冤罪?事例〉についての動画。彼らの攻撃電話の実態の1つか。不動産屋さんお気の毒)
http://www.youtube.com/watch?v=hhtKxpqoPPU

以下、お暇な方への余談。
さらに興味のある方はココログでもアメブロでも、ボクが書類送検された際の『週刊新潮』との対決も合わせて読んで下さると良いかもしれない(イジメそのものではないが、実名報道で名を馳せる同誌は報道加害者として指摘される面も多い。その『週刊新潮』記者と被取材者としての宅八郎のリアル「デス・ノート」ガチンコ対決は面白いかな)。
最後に地の文でボクはマスコミによる「大衆の持つ恐ろしい何かとの結託」について触れているが、ネット上に見られる、めまいがするほどに憂鬱な「俗情」はいかなるものなのか、考えて頂ければとも思います。
(以下、ココログ)
http://takuhachiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/vs2-b36e.html
http://takuhachiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/vs3-c78d.html
http://takuhachiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/vs4-c65c.html
(以下、同一記事アメブロ)
http://ameblo.jp/takuhachiro/entry-10376212578.html#main
http://ameblo.jp/takuhachiro/entry-10377012507.html#main
http://ameblo.jp/takuhachiro/entry-10377792800.html#main

最後に。
そもそもの事件に立ち返って考えると、ボクは亡くなった中学生の冥福を祈らないではいられない。その死に何かを見出したい。人が考えるヒントを残してくれてはいないだろうか。自殺とは人を殺すことだ。他人を殺せば殺人だが、自分を殺せば自殺になる。ならば、「死」の意味合いの変容さえも考えないといけないのかもしれない。難しい局面、苦しい状況に身を置かれた場合、「命まで取られるわけじゃない」と考えて、乗り切る「おまじない」も、現代ではもはや通じなくなってしまったのだろうか。

(※この文章を書くのに時間がかかってしまい、また発表も遅くなってしまったので、状況が変わってしまっていたら、ごめんなさいね)

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