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2009年11月

森高千里さんについて、宅八郎が語る。

http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/nikkansp-p-et-tp0-091113-0003/1.htm

http://contents.oricon.co.jp/news/music/70619/full/?from_todaysnews


「あんた、ネットやってんのネ♪」

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森高千里さんについて、です。
本当に語りたいことは最後に記します。
ボク、宅八郎は「オタク評論家」デビューを果たした1990年代も「森高千里人形」で語られることも多かったです。それは昔だけではなく、現在でもそういう面はあります。さらに、もちろん「マジックハンド」というアイテムも同じくではありました。
森高人形で言えば、先日も「アメーバ・ニュース」の取材を自宅で受けた際に、男性記者たっての希望で(30歳前半くらいの彼にとっては「伝説」になっている)、現存する「森高人形」を自宅一室から取り出して見せてあげたら、相当うれしそうに写真撮影していたほどでした(笑い)。

ボクが森高千里さんに注目していったのは、80年代末から90年代初めです。楽曲で言うと『ストレス』で何かを感じて、南沙織さん『17歳』カヴァーで爆発、アルバム『非実力派宣言』で炎上してしまったわけです。

20年近く前、ボクは自分自身の存在が「オタク」というキーワードで時代の注目を浴びつつある中で、当時では世間ではまだ珍しい「フィギュアなるもの」を、原型師さんにお願いして、特注してこの世に一体しかない極めて精巧な森高人形として自作したわけです(量産してませんので、現在の〝価値〟は不明です)。

少し余談をします。
その森高人形を自作した時期を同じくして、ボクはマジックハンドをいつでも持っていたわけですが、じつはその時あの商品はすでに廃盤になっていて市場では一切売られていなかったものです。
ボクがなぜマジックハンドを持ち出したかというと、それには深い意味がありました。
※注・ここから先は、「宅八郎の文章は長い」(確かに長いですが、無料で読めるんですよ)とか、「今来たから三行で教えて」と言うような(それはNews Head Lineとしては重要で正しいのですが)、ただし、それだけでものを知ろうとする若い方は読まなくて良いです。
ボクは敬愛する映画監督スタンリー・キューブリックの古い映画『博士の異常な愛情〜または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか〜』の主人公、ストレンジラヴ博士の片手が義手であり、しかも時にコントロールを失って勝手に動いてしまう「その手」を表現しようとして、イマジネーションを発展させて、義手=マジックハンドを持つようになったのです。
そこには「二次元コンプレックス」に近い表現、つまり〝自分はオタクで直接三次元のモノを取り扱えないので、マジックハンドを使います〟みたいなパロディも含んだ独自表現でした(苦笑)。
しかし、ボクがバラエティ番組などでマジックハンドをうれしそうに持っているのを見て、メーカーは再生産を始めて、現在まで続くヒット商品になっています。
(余談、ここまで)

さて、その時期の森高千里さんに、実際にボクが強い興味と関心を抱いて興奮していたのは事実です。しかし「女性として」とは、また意味が違うんですね。
90年代当時、ボクはタレント的な面がありましたから、テレビ番組出演も多く、その収録現場には、アップフロントという芸能事務所の和田さんという方が出入りしていました(現在に至る〝〜じゃん?〟というような若者言葉を広めた側面もある兵藤ゆきさんのマネジメントがらみで出入りしていたと思います)。
その和田さんは後にモーニング娘。をはじめとしたハロー・プロジェクトの仕掛け人として才覚を発揮し、知られるようになっていったようです。当時、ボクはアップフロントに森高千里さんが所属しているのは分かっていましたから、彼に「何とか森高さん御本人にお会いできないか」「お願いします」とお聞きしてみたわけです。それはボクの個人的お願いという意味だけでなく、現実にテレビ局が対談を企画しようとしていたことでもあります。

ところが、回答は「森高千里本人からのお返事ですが」「本人の〝強い意志〟で宅さんには絶対に会いたくない」「ごめんなさい」とのことでした・・・(涙)。でも、しょうがないかもしれないですよねー。自分の「人形」を創って毎日可愛がっているという人間に、不気味な「何か」を感じても仕方がないでしょう・・・(苦笑)。

その頃だと思いますが(年順序に記憶違いがあれば申し訳ないです)、森高千里さんは『私がオバさんになっても』という曲を発表します。
(この時期、森高さんの楽曲はすべて御本人が作詞しています)
その言語感覚は素晴らしいものでした。ボクは当時、20歳代前半の女性からも「〝オバさんになっても〟って、とてもリアル。歌詞の内容もある意味、考えさせられる。男性目線も含めて」と聞いたことも思い出します。
さて、そこで「オバさん」の境界ですが、これは御本人・ファン・それ以外の方では意識が違う可能性もありますが、お子さんも授かって現在では妻として母としての御自身がある森高千里さんは、「オバさん」とも言えるわけですよねー、何か感慨深いです。

そう言えば、思い出しましたが森高千里さんの「衣装」そのものもスタイリストさんに創っていただいて、それを着込んでコスプレしたボク宅八郎が森高さんステージに観客として「参戦」したこともありました。中野サンプラザです。ステージ最前列であまりに目立って応援していたボクにとまどっていたご本人を思い出します(笑い)。

さて。ボクが熱狂していた後の時期になりますが、別に「フラれた腹いせ」とか、そういうワケでも何でもなく、森高千里さんの表現活動には特別興味がなくなって、冷めていったのも事実です(これは「否定」ではないので、御本人にもファンの方にも失礼があったら、本当にごめんなさい)。
具体的には、CMのタイアップもあったかと思いますが、「ビールを飲もう」とか「沖縄に行こう」とか、ドラムを叩き出したり、どんどん彼女がアーチスト化していった頃か、とは思います。
ボクとしては、昭和天皇の「人間宣言」ではないですが、せっかくアイドルが「非実力派宣言」、つまり「人形宣言」してくれたのに、その後に「人形」ではなく〝実力を要求されるであろう〟「人間宣言」をされてしまったようなものですから・・・。

さてさて。
そのように、ボクは冷静な受け止め方があったので、リアルな世界で森高千里さんが俳優の江口洋介さん(一度だけお会いしたことがありました)と、御結婚なさった時も、ボクは動揺するどころか、あまり何も思わなかったです。もちろん、人として素直にお祝いしたい気持ちでしたよ。
ただし、当時どのテレビ局か忘れてしまいましたが、ボクにコメント取材してきたことがありました。その時は、視聴者サービスのつもりで「ボクだけの森高さんが結婚するなんて本当に悔しいですっ! 江口洋介さんより、ボクを選んで欲しかったです! しかし、祝福はしますっ、おめでとうございますー!!」などと応えておいた記憶はあります。メディアも視聴者も、宅八郎にはそう言って欲しかったんでしょっ、望まれる結果は出しますってっ(笑い)。

では、しかし、どうして90年代初期の森高千里さんにボクが感極まってしまったのか。それを具体的に提示します。
ただし、先に言い訳させて下さい。
先だって、マイミク限定で発表したボクの〝ラブレター〟MICOちゃんに触れた文章や、DJメカヤクザとしては島倉千代子さんREMIXを手がけている事実など・・ボクが「熟女マニア」なのではないか、と誤解されかねないのですが、本当にそれはないです(また逆にロリコンとも違う気はします)。
ボクはスパークしている人間、人間が人間を超越していく姿が好きなのだと思います。ボクは自分自身もスパークしていきたいです。

1990年頃、森高千里さんの光り輝く姿には、じつは心の中では「お恵ちゃん」(おケイちゃん)の存在が前提としてありましたーっはっ!
「お恵ちゃん」・・・。
それは松山恵子さんです。すでに2006年に一生独身のまま、お亡くなりになってしまった演歌歌手です(享年69歳)。その「お恵ちゃん」というニックネームは御本人が自分自身のことを指して、「お恵ちゃんはネー、お恵ちゃんはネー」という口グセがありましたから、現在の70歳代以上の方からは認知されているかとは思います。
まだ、お若い時、たとえば着物姿のお恵ちゃんはまあ普通でしたが、1980年代以降から、歌手生活50年を超え、晩年に近づくにつれて、お恵ちゃんはまるで「お姫様」のようになっていきました。
その衣装はスカートの直径が3メートルを超え、重さは30キロにまで達していったのです。王冠やお花畑全開の衣装は見物でした! 物凄すぎるスカートでステージに現れると、歩くだけでそこには巨大な「波」が動くように現れるわけです、そしてお辞儀をするともはや「波間に人間が沈んでいるように見えてしまう」わけです。
晩年は体力的にも大変だったかとは思います。

これは紅白歌合戦で、小林幸子さんや美川憲一さんが演出したステージ衣装のような話じゃありません! あの人たちは1年に一度の紅白のためだけに、まるで舞台セットになってしまって動くことも出来ない・しない、大道具さんの助けを借りての演出だったわけですよ。
しかし、お恵ちゃんは紅白でも何でもないステージでさえ、みずから望んで、本当の笑顔を振りまきながら、素晴らしすぎる衣装を選んでいったんです! この感覚この絵顔この表情こそ、ボクは森高千里のある時期に通じて感じたものだったわけです。

また、お恵ちゃんの名曲「だから云ったじゃないの」での名ゼリフ「あんた、泣いてんのネ」は当時、昭和33年の流行語にもなっています(ボクは生まれてないんですけど・・)。
しかし、その後の時代に歌唱した場合でも、お恵ちゃんはアドリブで「あんた〜〜なのネ」と言い換えたりもしています。
なので、ボクも自分の周辺では良く「あんた、メシ食べてんのネ」「あんた、起きてんのネ」「あんた、お風呂入ってんのネ」「あんた、寝ちゃってたのネ」などなど、発言しまくってました・・・。

ボクは森高千里さんは美人で可愛らしい方だと思いますが、「宅さんはモリタカのルックスや脚線美が好きなんでしょ?」と言われたことはこれまでに数多くありました。しかし、違うんです・・。
リクツは置きましょう。
以下の動画を見ていただければ、ボクの言いたいことは伝わると思います・・・。お恵ちゃんと一時期のモリタカとの類似性をご確認ください。

(森高千里「今度私どこか連れてって下さいよ」→頭に飾られた巨大なリボンに注目)

(松山恵子「だから云ったじゃないの」→名ゼリフ、曲間のアドリブ、お花畑のような衣装に注目)
ボクは起訴されるかもしれないけど、来年も頑張りますよ、宅八郎!

(松山恵子「お別れ公衆電話」→凄すぎるスカートや頭に飾られた王冠に注目、お姫様のようです。曲の最後の最後は、おケイちゃんがお辞儀しますが、完全に「波」の中に〝生き埋め〟になってしまうショッキング・シーンですw)

(同じく衣装に注目。ただし、映像は短いです。一生懸命、超大物の北島三郎さんが盛り上げてます)

どですか・・・。
ボクが森高千里さんにハマった理由がみなさんにもお解りいただけましたでしょうかー?
「アンタ、解ってくれてんのネ!」

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森繁久彌さんご逝去について

満96歳の死でした。若い方、いやボクみたいな40歳代ですら、「ずいぶんご高齢の大物芸能人がお亡くなりになったんだナー」くらいの認識かもしれません。

しかし、ボクは評論家やコメンテーターのように、「森繁久彌の死は〝何か〟の死である」「〝何か〟の死を意味している」というような文章は作文できません。
ただ、非常に深く受け止めるものがあります。そこにはボクが某所で記してきたMICOちゃんのお話なども関係してくるかもしれないな、とも思います。ボクが考えてしまったのは「表現力」とか「狂気とも見える何か」について、です。

訃報を眼にして(耳にして)、すぐに森繁さん御本人にお会いしたことのある芸能人の言葉を思い出していました(それが誰であるかは特に記しません)。話を聞いたのは、確か10年ほどかそれ以上前ですから、それでも森繁久彌さんはどう考えても80歳代であったか、と思います。
ある芸能人の件で、その場に駆けつけてきた森繁さんのお話しでした。「ヨボヨボとした感じでやってきた森繁さんは到底〝老人ぼけ〟しているのではなく、明らかにその深刻な場ですら老いぼれた老人を〝演技〟していて、とてつもなく凄かった」「すべての空気をかっさらっていった」というものでした。要するにぼけているのではなく、〝ぼけ〟をかましていたという話です。

あまりに、世代的に理解できない方には以下のような説明をしておきます。
森繁久彌さんは『徹子の部屋』第一回のゲストで、黒柳徹子さんの胸を触る「セクハラ行為」をテレビカメラの前で行った伝説的な人物であり(何度もそのシーンは再放送されてます)、さらに日本という国で数々の文化勲章を受賞している大変な御方です。俳優としてもコメディアンとしても、偉大すぎる御方でした。

ただし、ここで「芸能人論」「俳優論」「芸人論」、すべてを書き記そうとすると、大変な長文になってしまい、時間もかかってしまうので、避けます。

ボクの活動は音楽に向かっている側面があります。そこで、森繁久彌さんのシンガー・ソング・ライターの部分、しかも一曲についてのみ御紹介します。一発勝負のメモみたいなものです。
作詞作曲・森繁久彌として、最も有名なのは『知床旅情』でしょう。
ただし、これは「オホーツクの船唄→しれとこ旅情→知床旅情」、ほぼすべて同じ曲だと捉えてくださって良いです。

サウンドを考えるのであれば、「音」は以下から聴いて下さい。最も売れたヴァージョンは加藤登紀子さんヴァージョンで、また森昌子さんや、近年では夏川りみさんなどもカヴァーしています。
「歌手」「アーチスト」と言われる方の歌はたいへん歌唱力、実力を感じる素晴らしいものだとは思います。しかし、「狂気」までにはいたっていないかもしれません。
オリジナルは作詞作曲を手がけた森繁ヴァージョンになります。
このサウンドは・・・。すぐに気づかされるのは、女声合唱や録音の不思議さかもしれませんが。
森繁久彌さん御本人の歌唱(音声データ)を数学的に波形で見た場合、「縦軸の正確さ」と「横軸の独自のうねり方」のバランスは特徴的です。
縦軸とはすぐ他人が「音痴」と感じるかどうかであったりします、また横軸も聴く人によっては「音痴」に聴こえなくもないですが、「間」「間合い」というべきものだと思います。ボクはその人の「リズム」や「グルーヴ」だと感じるわけです。
ただ、音楽について深い知識のないボクには解説は困難な面があります。誰か・・・そうだ、山下達郎さんや大瀧詠一さんなどが専門的な解説を語っていただければ、読みたいナーと個人的には思います。

(オリジナル森繁久彌ヴァージョン)

(良く認知されている加藤登紀子さんヴァージョン)

(夏川りみさん&幸田浩子さんライブヴァージョン)

ところで、表現者が持っている真の「情熱」とは、もはや他人には狂気としか思えないものなんじゃないか、とボクは考えています。しかし、社会的評価は別です。それは時として「犯罪」になったり、「文化勲章」になったり、そこは結果論でしかないんじゃないか、とさえ思います。
森繁久彌さんライブ映像であれば、61歳時の動画になりますが、以下の迫力をご覧下さい。これは男声合唱団になってます。

最初の1分ほどは軽く「伊福部昭」な感じを湯船で歌ってみたように見えます。その後に良く耳にするメロディに移ります。
眉毛の動き、眉間のしわ、首のかしげ方、さらに笑っている目つきと笑っていない目つきの使い分け、口元、果てには口ひげさえ動いてしまっているような「表現力」の狂気をお感じ下さい。「笑いながら泣ける人」であり「泣きながら笑える人」がここにいます。
普通に見れば、昭和の名曲を老人がご機嫌に歌っているとお感じになる方もいるかもしれませんが、よくよく見て下さい。
もはや、お客さんを「爆笑させながら、狂い死にさせるパワー」をボクは感じるのです。終盤、早稲田大学生の男性コーラスが左から右へのパンで入ってくる構図など、現在のお笑い番組どころではないですよ。

また、音楽的知識が不足しているボクですが、メロディや音符の何とか進行は、90年以上前の曲「ゴンドラの唄」(1915年)が「元ネタ」かとはおもいます(吉井勇作詞・中山晋平作曲で、この映像でのギター演奏はアントニオ古賀さんです)。
以下の40年以上前の映像では、まだまだ森繁さんはお若いです。この曲は日本映画の天皇・黒澤明監督の名画『生きる』でも有名ですね。ただし、楽曲の「消化」や「展開」のとてつもなさは森繁久彌さんそのものなのです。

ちょっと変わったものが好き、昔で言えばニューウェーブ・マニア、あるいは「サブカル」嗜好など、不思議なもの、どこか狂気を感じさせるものが好きな方が世の中にはいますが・・・。ボクは森繁久彌さんの表現力、これこそ、真の狂気だと考えています。
「笑いながら死にましょう」と森繁久彌さんがあの世から言っている気がします。

ところで、ボクについての例の事件については動きがあれば、書き記します。また、かつてのボク、いや今でさえ森高千里人形で語られることもある宅八郎ですが、どうして「あの時期の森高」にハマったのか、伝える文章も映像資料付きで記したいです。それから、ジャニー喜多川さんが持っている「萌え」についても言及したいです。

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