読者のみなさんへ
注意があります。『「宅八郎容疑者」としての見解、声明だよ〜♪』という長文記事は(1)から(3)まであります。しかし、深夜から早朝にかけて発表していったために、順番が(3)〜(1)に掲載されています。
文章には流れがありますから、可能であれば(1)〜(3)の順番でお読み下さい。
「宅八郎容疑者」としての見解、声明だよ〜♪(3)(長文)
状況の変化がなければ、報道ももうそろそろでしょう。
テレビ番組ではボクが把握している限り、今日25日(日)朝8時〜放送の日本テレビ系『TheサンデーNEXT』(司会・徳光和夫)で取り上げられるようです(9時くらいではないかとのことですが、変更される可能性あり)。
さて。今回の事件の取り調べの中では、ボクが書き記したネット上の文章表現が問題とされているわけですが、最初は捜査員も緊張しているようでした。
いわく「何が書いてあるのか、秋葉系とか渋谷系とか、警察では分からない面が多かったです」「さらに宅さんの文章は専門用語が多くて、広い知識がないと、私の頭では難しすぎました」。
しかし、取り調べとはいっても、次第にお互い、なごんでくる面はあります(油断は禁物ですが)。
「宅さんのブログの文章って、ところどころギャグが入ってるでしょ。ホンマのところ、私は笑えましたよ」「それから韓国の話が面白くって、もっと読みたいです。私も韓国旅行に行きたくなりました」。
そこでボクも「どのへんのギャグが面白かったんですか?」と聞いてみました。すると、「私たち関西人でしょ。ベタなギャグが大好きなんです。たとえば〝女医とジョイ〟なんてダジャレは最高で、警察でも大爆笑してました!」
ウケるポイントは人それぞれです。
そこで、ボクも捜査員に提供した四方宏明資料の中から、「これ見て下さいよ」と、神戸に本社があるP&Gからの内部告発資料をボクが見せたら、「ええー、確かに神戸にあるあそこの大きな建物は知ってますが、社内事情はこんななんですかー、そんなー」と爆笑。
しかしながら、取り調べでモメる「場」もありました。あ、読者のみなさん、誤解しないで下さい。机をガンガン叩かれたとか、暴行を受けたとか、「今、吐いたほうが楽になるぞ」と言われたとか、そんなことは一切ありません。
供述調書の作成で、ボクが「このあたりから文章を盛り上げてみましょう」とか「グッと面白い調書にしましょう」とか「もっともっとキャッチーに書いて下さいよ!」とか「書くスピードが遅い!」とか、ガンガン攻めていったのはボクだったからです(笑い)。
ボクはスパークしてくると、そこがどんな場所であっても「劇場」になってしまうんですね。
ふとボクが捜査員に「宅八郎の取り調べって、どうなるんだろうって事前にどう予想してましたかー?」と聞いてみると・・・。
「宅さんが、〝黙秘〟と最初に一言だけ言って黙り込んでしまうんじゃないか、とも思ってました」とのこと。ところが、むしろスパークしたボクが多弁になる姿を見て、「昔からテレビで見させていただいて、宅さんの力説ぶりに感動していたんです。このエネルギーは何なんだと。宅さんは文章でもテレビ出演でも、こうした取り調べでも、本当に熱く語る方なんですね」と感心してくれてました(苦笑)。
今、少しは笑えるようには書いているつもりですが、ただし捜査員はしっかり「仕事」もしようとしてました。
たとえば、刑事事件の調書では「動機の解明」がなされている箇所を作る必要があったでしょう。しかし、ボクは権力側が期待しているような意味合いでの「動機」は一切語りませんでした。刑事ドラマや時代劇に見られるような「怨恨の線から犯行に及んだ」という文脈はないわけです。
そこで「主義主張なら語れますよ」と言いました。
「では、宅さんのお話しを聞かせていただきます」とのことだったので、ボクが演説をえんえんと始めたところ、しばらくして「宅さん、もうカンベンしてください」。
演説は〝言葉責め〟であり〝拷問〟だったのかもしれません(苦笑)。
しかし、ボクが「調書に署名捺印するのはこのボクだ。〝聞け〟〝書け〟!」とエスカレートしてくると、「申し訳ありませんが、宅さんの言うとおりの調書は作れません、ホンマすんません」だって。
また、笑っていた捜査員がこちらをキッと見据えてきたこともありました。
「兵庫県警の広報についてですが、すでに内部で相談してきました。こちら側から積極的に報道機関に情報をリークしようとは考えていないとのことです。ただし、もしかすると、漏れてしまう可能性はありますが・・・。しかし、どうして、こういうことを被疑者である宅さんに伝えるか、分かりますか?」
「宅さん、あなたは書くでしょう・・・。あなたは、こうして強制捜査を受けたこともきっと書くような御方だと思います。その場合、警察にも体面がありますから広報が動かざるを得なくはなります。出来れば避けたいですが」。
確かにボクは書類送検の前に原稿を書き記して発表するつもりでいました。しかし、順番が逆になってしまったのには理由があります。
それは兵庫県警が次のようにボクに告げていたからです。
「年内、おそらく12月にもう一度取り調べを受けていただくことになります。それは任意になるか強制になるか分かりません。任意だとは思いますが。その後、警察と検察が相談して判断していくことになるか、と思います」。
そこで、ボクは年をまたぐことになるな、と考えていました。ところが、一昨日、10月23日に捜査員がボクに電話をしてきたのです。
「じつは検察庁と打合せの結果、明日書類送検することになりました。どうして、このことを前日の今日御連絡したかと言うと、すでに報道機関から兵庫県警に取材が入ってしまったからです。事件が報道されるのは確実です。私たちは一次捜査機関です。あとは検察庁の判断にゆだねます」。
そして、この事態になっているわけです。
さて、取り調べにあたった捜査員のしっかりした仕事ぶりについて、最後に書いておくことがあります。
ここは調書の上で「情状酌量」の余地について記す必要があったのだと思いますが、「最後に被害者の四方さんに言いたいことはありますか? 謝罪する気持ちはありますか?」と聞いてきたわけです。「謝罪の意志」の確認です。
ボクは即答しました。
「四方宏明から謝罪してもらいたいと思っています、出来れば土下座で。Do Get Thatと書いて」!
「こんな下らない事件に税金使うようなことはおかしいですよ」!
取調室には捜査員が2人いましたが、その場は一瞬止まりました。通常の取り調べでは考えにくい状況、被疑者の言葉だったのでしょう。
数秒経って、「そういう調書は作れません」。
検察庁に送る調書としてマズイと考えたであろうことは想像に難くありません。しかし、ボクがさらに強く「供述調書の任意性について考えるなら、ボクの考えをしっかり記してもらいたい」と主張すると・・・。
「少し待って下さい、上司に相談してきます」と部屋を出て行った彼を少しのあいだ待たされていました。しばらくして捜査員は戻ってきましたが、「やはり調書にはスタイルがありまして、宅さんの言うとおりの調書には警察としてはできません」とのことでした。
ボクは言いました。「それが警察の『作風』なわけですね」。
もしかしたら、ボクの取り調べに当たった捜査員は次のように思っているかもしれません。
「宅さんは、もう沢山」。
このようにして、兵庫県警にとっての警視庁の協力を得た、東京での3日間は過ぎていったわけです。加えて、ボク一人の取り調べだけではなく、「この事件に関して東京での捜査が他にもあるんです。そのための令状も多数用意してきています」と言っていました。今回の強制捜査に関する捜査令状は相当の枚数になっているようでした(おそらくボクの契約プロバイダやmixi、各ブログ運営先のサーバに関するものもあったかもしれません)。ですから、きっと他の捜査員もあわただしく動いていたことでしょう。
また、内偵捜査(ボクが自宅にいるかどうかの確認)のために、8人全員ではないにせよ、3日以上の東京滞在を余儀なくされる状況はあったでしょう。
それらの出張費、捜査費用はいったいいくらになっているか聞きましたが、教えてはくれませんでした。しかし、神戸での捜査を考えるとそれ以外の予算も割かれたはずです。オタク評論家・宅八郎ごときのこの程度の下らない事件に多くの税金が投入されたのは事実です。四方宏明によって。今後も事態がどうなっていくか分かりませんが、検察庁が起訴に踏み切るなど、場合によってさらに血税が使われることになるのかもしれません。
ただし、ボクは「被告」になる覚悟は出来ています。
さて、「脅迫」についてです。
ボクは四方宏明に対して、「畏怖させたことも、害悪の予告をしたこと」もありません。「四方の生命、身体、自由、名誉または財産に対し害を加える旨を告知したことがない」わけです。あくまで、「表現手段」の一環として、「真実の追究」を目的として、「過激な表現」で原稿を執筆しただけです。
このあたりは、みなさんにも見解の相違があるでしょう。
しかし、研究者や学者、評論家やジャーナリストなどの「論争」にはかなり「過激な表現」の応酬がなされるケースはあるのではないでしょうか。もちろん、論点が異なる場合、異論反論によって「相手の社会的評価を下げる結果にいたる文脈」もあろうかと思います。それらは「脅迫」とはされていないですよね。
また当然、テレビでも報道でなく時代劇として『必殺仕事人』というタイトルなどは問題視されません。
「文脈」とはテキストに対するコンテキストという意味です。
「法」と「道徳→社会的規範」の問題には、今までのボクは留意し続けてきました。つまり、「ルールとタブー」ですね。ボクはルールは守ろうとしていますが、タブーは超えても構わない、と考えているわけです。
ボクは過去にその名もズバリ「処刑宣告」(太田出版刊)という書籍を出版したことがあります。また、1990年のデビューから約20年間にわたっての、ボクなりのメディアでの「表現」として、書籍や雑誌などで「殺す」と書いたことも何度もありますし、「刺す」と書いたことさえもあります。「死刑」と書いてもそれは『がきデカ』的表現で、個人が死刑を執行することは出来ません。また、放送メディアであっても生放送で共演者に対して「死んでもらいます」だの「明日からあなたを処刑することにする」と発言したこともあります。
もちろん、ボクはこの人生において「殺人」なり「傷害」などの前科もなければ、嫌疑をかけられたこともただの一度もありません。
なので、それらはもはや表現者としての「作風」「芸風」としか言えないものなんですね。
また、そうしたボクの作風・芸風(独自の表現手法)については知人であった四方宏明も理解していたはずです。コトバを使う、著名な音楽評論家・四方に、その理解がない・なかったとは到底思えません。そうは言わせません。なのに、被害届提出という方法を執った四方は自覚的であり、ボクの表現で言うなら「あまりに卑怯だ」とも思えます。
音楽評論家として「先生☆」を名乗り、人にモノを教えるような態度で「上から目線」で記事を執筆している四方宏明。しかし、いざとなったら「脅迫の被害にあった一会社員です」なんて言えるの、おまえ!
しかも、ボクが大阪で最初に会った際には、会社の名刺と2枚受け取った記憶があるよ。外資系大手企業であるP&Gの「部長」(だかエライ立場)にある自分を自慢してたじゃない。ボクは底辺の人間だよ。実名で音楽評論をしていて、そのことを会社も知っているじゃない。それが、いざとなったら「一会社員が実名や会社名さえも宅八郎によって明らかにされてしまった被害者なんです」とか、「泣き芝居」もいい加減にしてほしいよ!
四方、おまえ、書いたものに責任を負えないの? ボクは今回、執筆責任を追及されているんだよ。その上で主義主張は展開していくよ。それがロックだ、ポップだ、パンクだ、宅八郎だ。
ボクは一会社員に過ぎない「一般人」に対して、逆恨みをして攻撃を加えるなどということは過去にも現在にも考えてもいません。
一般的な意味でのネット上での「犯行予告」について記します。
2000年の西鉄バスジャック事件(ネオ麦茶事件)や、2008年の秋葉原無差別殺傷事件のように、ネット上での「犯行予告」「殺害予告」をした上で凄惨な事件が引き起こされるような時代にいつしかなってしまいました。そのために、「本気じゃなかった」「冗談だった」というようなネットでの安易な書き込みにさえも警察は対応し、それが取り締まりの対象となる時代になりました。
それらは「脅迫」だけでなく「業務妨害」などの容疑にもなりえます。
ボクもそうした事件はとんでもないコトだと考えていますし、安易で無自覚な匿名での書き込みはどうか、とも考えています。
しかし、ボクは冷静に思います。
それらに世間が過敏になり、人々が何らかのおびえを感じ、得体の知れない恐怖が世を包むのはなぜだろう、と。
それは一つには「素性の知れないどこかの誰かが、理由が見えない無差別大量殺人を起こすんじゃないか。いつ、どこで、誰が被害に遭うか分からない。自分がいつ殺されるか分からない」という恐怖心なのではないかと考えます。
ところが、今回のボクの事件はまったく性質が異なるものです。
匿名でなく「宅八郎」と名乗ったボク個人が、不特定多数ではなく(無差別とは言えない)「特定個人」に対して、さらには社会にもエンターティメントを提供する形での、あくまで「表現」としての「処刑宣告」だったからです。そこには、相手が著名な音楽評論家であるために、社会的公益性を鑑みる考えもありました。
もちろん、ボクの「処刑宣告」や「ブッ殺します」「地獄行きです」「死刑」といった表現は、当然、人間としての生命を絶つという意味での殺害予告ではありえません。
しかし、ボクの「作風・芸風」、その「表現」や「言葉選び」が時代によって解釈が変わってくることもあろうか、とは思います。ただ、頑固者なボク自身は変わっていないということでしょう。昭和の人間ですから。
「表現」とは何なのか。
「表現の手法」「言葉選び」はかつて議論された「言葉狩り」という文脈(神戸に住む大作家・筒井康隆氏の一時的な〝断筆宣言〟もお調べ下さい)や、「差別用語」(放送禁止用語など)の問題にも通じています。
新聞社や出版社には校閲部があり、テレビ局には編成部があります。「社としての一貫した姿勢」は出来るだけ徹底しようとします。
時代によって、メディアで過去に不適切な「言葉」や「表現」があったものが、ある時代には「自主規制」によって表現を変え、次には「むしろ、それは逆差別になるのではないか」と判断される時代もありましたね。また、言葉や用語の「言い換え」をしても、本質は何ら変わりはないのではないか、とメディアが自問自答している面もあるか、とは思います。
メディアもそれぞれに「表現の手法」を模索し続けています。しかし、ボクはフリーランスですから、「社として」ではなく「個人として」、そうしたことを検討・研究していく必要があります。その「余地」は大いにあります。
「表現の自由と不自由」とは何かをボクは考えていきたいです。しかし、ボク自身の姿勢は今後も何ら変えるつもりはありません! 反省? 冗談じゃない! ボクはそういう人間です!
それが宅八郎だ!
最後に。
かなりの長文になってしまっているとは自覚していますが、分かりにくい面はまだあるのかもしれません。ただし、ある程度、ボクなりに合理的な説明をしたつもりです。必要があれば加筆もします。また状況が変わるようでしたら、みなさんに一定の理解が可能かも知れない説明をさせていただけるような、表現の「機会」と「場」があれば、幸いです。
(現時点での声明、おわり)
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